十を学び一を知る、一を学び十を知る

予告した時から気になっていた、火の粉を払え!のブログの記事“「御言葉」重視派への根本的な疑問”を読んでみましたが、想像していたのと違った着眼点でした。

それでもコメントも含め、改めていろいろ考えさせられる内容でもありました。

一言で感想をいうと、本末転倒にだけはならないようにしなければと思いました。

み言の究極の目的は再臨主である真のお父様であります。

極端な言い方をしてしまえば、み言を知らなくてもお父様そのものを信じ従えばそれで、神を知り真理に通じるということでしょうか。韓国で多くのおばあさん達がお父様を慕って涙を流しながらこられたのも、お婆さんのそれまでの人生で培った土台でお父様にお会いしただけで通じるものがあるということではないでしょうか。

マタイ9章「20するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。21み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。22イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」するとこの女はその時に、いやされた。

み言も霊的な要素があると思います。言霊という表現もありますが、目に見える文字だけでとらえると行き詰まるんだなあと感じました。

お父様がみ言全集全て読みなさいと言われたのは、以前 777 のブログの方も引用した聖句、

ヨハネの黙示録21:6“そして、わたしに仰せられた。「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終わりである。かわいている者には、いのちの泉から価なしに飲ませよう。” 

ヨハネの黙示録22:17“御霊も花嫁も共に言った、「きたりませ」。また、聞く者も「きたりませ」と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。

というような意図を含んでいたとはいえないでしょうか?物理的に見て全ての人がそれを全うするのは、結構大変なことだと思いますが、初めから私たちの判断で制限するべきではないことです。

真の父母という意味や生涯で勝ち取ってこられた内容を、私たちのためにありとあらゆる方法と表現で分かりやすよう、膨大に示してくださったみ言。その意味で一言一句変えてはならないと言われるのはまったくそのとおりであり、重複しているとおもっても、語った時と場所が違っておられるのならそのこと(重複していること)自体が意味をなすと思います。

とてもシンプルな一言でも表されてもおられます。

為に生きる 

この一言に宇宙の根本原理があるとしても、それだけでは精神生活と社会生活を乗り越えるには足らないと思う人もいれば、この一言ですべて関連付けてとらえられる人もいるでしょう。


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