天地人真の父母定着実体み言宣布の意味 その2

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2010年天暦5月27日に宣布

今日は安侍日ですが、安らかに侍る日が「安侍日」です。侍る「侍」(の字)です。神様に祈るのではなく、侍るのです。侍るというのは一つの家庭を中心としてのことです。家庭の父になることができる人は天地に侍るのであり、父が侍る無形の神様に侍って、実体の母が実体の神様と一つとなって、歴史時代にふさがっていた垣根をどうするのですか?

サタンが愛によって生命の起源である神様の位置を奪って引っ繰り返したもの対して、神様は思い通りにすることができません。神様は上へ行くことができず、創造世界が上へ行くことはできません。どこにおいても天を標榜し、地からそれを追慕し、天地人の主人になることができる開放的体と心を持って初めて盟誓文を唱え、天地人真の父母定着実体み言宣布大会をすべて成し遂げたというのです。

皆さんがそうしたのではありません。無形の神様と真の父母が万王の王と真の父母の愛の主人を捜し出したために、宇宙はその本然の位置に入ってきて、2010年天一国10年の何月ですか?天暦5月27日です。これが私たち人間においては何ですか?この前の、天地父母天宙安息圏絶対・・・・・。絶対をすべて壊してしまいました。絶対を持てなかったために皆さんの体と心が闘っています。

皆さんの絶対の王宮の跡となっている凸凹が自己主義によって、ありとあらゆることをしてきたというのです。女は女なりに、男は男なりに、天が好まない家庭を代表してつくり、天の宮殿と地の宮殿、無形の神様と実体の神様が一体をなすべ

き所に永遠の国境線を作り、城を築い上げ、これを越える者がいないというのです。

真の父母に対して、サタンたちが「創造理想がどんなに大きいとしても、天の玉座と地の地獄を支配しているサタンの血統的な根を抜くことはできない」と言いました。私に対して「おまえが、考えもつかないそのことを成し遂げることができるのか。成し遂げることができるなら、やってみろ!」と言ったのです。

ですから、「百回千回死んでも、私が同情し、私がかわいそうに思って見ることのできる道を捜すことができない限り、お前の解放の座は永遠にありえないのだ」と言うのです。

それで、天地人の「地」の字を見てみると、「地」の字も「土」の字が三段階になっていて、「也」が一つになれません。天地人が一つになれないのです。天地人はそのようになっていますが、真の父母が定着実体です。盟誓成文を唱えることができる位置だというのです。

天地人真の父母定着、定着です。定着実体になったので、み言宣布なのです。実体としてみ言を宣布したのです。神様がみ言によって神の実体をつくるのに、先頭に立つことができません。裏返ってしまったふろしき包みを正しく元返さなければならないというのです。ですから、み言の宣布です。

み言が上へ行ったのです。み言が上で、宣布が下です。引っ繰り返っているのです。み言を中心に引っ繰り返したので、上へ行っていたみ言ですが、これからは地に広げて、み言完成解放圏を成し遂げることができる真の盟誓文、家庭盟誓を唱えうる初日をきょうという日によって迎えたというのです。

きょうから先生の権限は何ですか?天地人真の父母安着実体宣布み言大会です。上に行って、小さな頂にくっついていた「み言」が下がっていかなければなりません。全体が引っ繰り返るのです。上はそのままで、「宣布み言」と、引っ繰り返るのです。み言を引っ繰り返して打ち込むのは誰が・・・・・。それは、真の父母です。

真の父母一人で、血筋全体が編んできたもの、数億年間になされたことを、血筋を通して覆すことはできません。み言を中心にして宣布の一言が全体を覆し、本然の世界に向かって行くのです。勝利の太平聖代、億万歳、億兆京万歳の時代を越えていくのです。

氏族メシヤが氏族を率いて天国に入って行くのが、堕落前の理想でした。氏族圏を失ってしまったのですが、初めて統一教会が氏族的メシヤ絶対権限を中心として、どうするのですか?それ以上の民族、民族以上の国家、世界、天宙までを父母様がすべて成しました。父母様が橋を架けたので、心配しなくても皆、連携して入ることができるのです。

それゆえに、氏族的メシヤ圏を中心にして、皆さんが死ぬ前に「天国と地の問題の主人は私だ」と言わなければなりません。そうできない人は落ちていきます。消えてなくなるのです。

先生は一生の間、闘いながら、ありとあらゆる冷遇、迫害を受けても我慢してきましたが、2013年まで耐える力はありません。文総裁には下に降りていく道がありません。どんなに進んでも、戻って反対に行く道がないので、私は私の行く道を進まざるをえない宣布式をして、立たねばならないのです。

これからは地獄の門がなくまります。今日が最後に宣布する安侍日です。この朝に、天地人真の父母定着実体です。定着してこそ実体があるのです。実体があってこそ、み言を思いのまま注入して主人の位置になるというのです。み言は上へ行き、宣布は下に広げておいたのです。「布」の字を使うのは三度目です。

「布」の字を見てみると「巾」の字の上に(ハングル子音字母の)「キヨック(ㄱ)」の字を書いて、そこから右側に白いものが見えますか?そうしておいて、その真ん中を中心に支えとして「巾」を書いたのです。「巾」の字の上に「民」の字の上の部分を書くと、葬式の時に書く字である「吊」(弔の俗字)の字です。死体を踏み越え始末し、その葬式の日に打ち勝って、もはや天地に死がありません。

み言もこの前に出られず、実体も出られず、天地人真の父母安着もこの実体の前に出ることができないというのです。この前にキヨック(ㄱ)、二ウン(ㄴ)、ティグッ(ㄷ)があってリウル(ㄹ)まで来れば次はミウム(ㅁ)ですが、サタン世界の実体が残っています。「布」の字はそういうふうに書かれています。

「天地人真の父母定着」までは、くっつけて書きました。鳥の尾(のような冠飾り)も付き、真の父母も付いて、定着に来て、どうですか?

安着実体圏では一番上にいて踏み越えて立ち上がるのです。実体の体を中心に「宣布」というのはどこにもくっついていません。宣布の「宣」の字も「み言」の一番端に付いているでしょう。引っ繰り返しておくのです。み言(말씀)という単語の最初に子音字母のミウム(ㅁ)があるのも、ピウップ(ㅂ)が連結できるようにしたのです。それを中央からずっとやって、み言の端を連結して、地上でみ言に従っていかなければならないということなのです。

今も亨進は父母をしっかりつかんでいます。手をつかむなと言っても、手をぎゅっと握り、「どうか、お父様、私が手を握ったら、放せと言わないでください。私はこの手を放すと死んでしまいます」と言うのですが、そのとおりです。私が手をしっかりつかんでやるのです。「私につかまって行け!」というのです。五十の峠を越えなければなりません。その様に謙遜です。どこに行っても自分を立てるということがありません。

私はどこかに行って主人のように振る舞おうという考えをしたことがありませんが、正にそれとそっくりです。五十の峠を越えてこそ、自分の服を着て軍人のようにクリーンカットの青年として堂々と進み出るでしょう。それ以前には私はそんなことはできないと言っています。亨進も父の伝統を受け継いで、その道を行かなければならないというのです。

これからは私が国の下に敷かれて越えていく時代は過ぎ去りました。向きを変えたので、半分になるときに、これは離れるのです。これの半分になるまで走ってきましたが、ここになるときはどうですか。中央線を越えたら、「おまえは、おまえの道を行かなければならない」というのです。私は私の道に従ってどこかに行かなければなりません。一、二、三、……十二人がこのように大きくなっていくのです。従っていくことはできません。従っていくことができないことが分かるので、離れていくのです。

そういうことをラスベガスでしているのですが、もう二十八回、二十九回目になります。三十回目を中心にして越えていく期間として、二十九・九九九です。イエス様は三十歳に行く道をつかもうとして失ってしまいましたが、その道をつかんでおくことによって天地が即座にでき上がるのです。一秒を中心に立て直すというのです。

 

 

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