天地人真の父母定着実体み言宣布の意味 その5

関連記事 「先生と同じのを持つんだ」

 

歴史の悲運を独りで責任を負ってきた文総裁

東洋と西洋において一週間以内に復興会をするために、先生が三年以上何の山を越えたのか知っていますか?三十四年の間アメリカへ行っていましたが、どうしてでしょうか?東洋と西洋、ヨーロッパと東洋が恩讐になっていますが、これを連結しなければなりません。アメリカはアベル国家として独立した国だけに、英国、カイン国家の基地が(アメリカの)東側の国です。東側です。アメリカの天地の、アベル国の東側の国の重要な都市は英国の地名になっています。ボストンなど、すべて英国本土の名前を付けたのです。

そこにいる民族の中で、アメリカインディアンの主人になることができるのは、どの宗族でしょうか?韓国の民以外には、そうなることのできる宗族がありません。地球星を見ると東洋と西洋がありますが、東洋の国と言えば日の出る国、すなわち朝鮮です。朝、海に浮かび上がる太陽を中心として、朝鮮なのです。

朝昇る太陽を先に眺めることができる民族、半月の間に三日月から十五夜を経て死んで蘇り……、一度死んで蘇ることを知っている民族と言えば、どの民族でしょうか?おひとりの神様とおひとりの神様が実体対象として丘を造ることができ、ま

ず高いところを展望することができ、まず太陽を眺めることができる立場に立ったのは韓民族、神様の国しかありません。神様に仕える国しかありません。

血筋を、夜の神様も昼の神様も忘れてしまったまま、血筋が引っ繰り返り、食い違っていく中で、四千年の歴史を正してきたのです。神様を否定することはできません。救世主が来る時まで待ってきましたが、救世主が来るや否や、どうしたのですか?

誕生したところはベツレヘムであって、エルサレムとは違った地方です。逃げていって、イエス様を生んで、馬小屋の飼い葉桶に寝かせた所がベツレヘムなのです。

ベツレヘムのイエスとして生まれるべきではありませんでした。エルサレムの城の中で王子として生まれることができなかったというのです。賤民中の賤民の種を受けたような立場で生まれたので、馬小屋の飼い葉桶に寝かされてクリスマスを過ごしたというのです。馬小屋で三十一か国の代表者たちを中心にして、どうするのですか?アダムに侍ることができる神様の国とイエスの国とエバの国、三人の代表者を束ねて四千年待つのです。

その時になって、「あなたが王子の座に立てることができて、アベルが王子の座に立つようになれば、私も夜の神様を昼の神様として侍ることができるように侍らなければなりません」と言うのです。すべて分かりました。分かったのですが、サタンが屈伏することはできません。

「私の横にいる息子、娘をどのようにすべて殺して、神様に侍りますか。私を追い出そうとすれば、これらを皆殺してしまい追い出さなければならないはずなのに、殺してしまうことができないのです。神様が殺せないので、夜の神様も殺せず、その次に昼の神様になりすべてを解放できる真の父母がそうできないのです。真の父母が消えれば天地がすべて消えるのです。そうはできないので、真の父母が気を引き締めてこれを正すのを私たちは待つしかありません」と言うのです。

神様と息子と娘、このエデンの三人と霊的に議論して、「そうしましょう」と言って、再臨主が自ら明らかにしなければなりません。自ら日(昼)と月(夜)を悟らなければならないというのです。エバは、昼も夜も知るエバになることができませんでした。

アダムとエバが、自ら明らかにできる日を待ったのです。自ら明らかにできるようになれば終わるはずです。「エバの言葉が誤りだった」と引っ張って行って、ふたりが四十日間、悔い改めなければならないのに、悔い改めなかったのです。隠れて暮らしたのです。

後に「エバよ、アダムよ!」と言いながら捜し始めたので、四十日間隠れてしまいました。隠れてしまう前にアダムが現れて、四十日が満ちる前に「神様、私が間違っていました」と言っていたなら、こんな歴史にはならなかったというのです。

アダムは分かっていたというのです。知ってみると、世の中がこのようになったこと、エバの過ちを自分が請け負うことはできないというのです。エバがしたことはエバのものとして返し、カエサルのものはカエサルに、ラバンのものはラバンに、アベルのものはアベルに返しなさいと言うことによって、神様が夜の神様と昼の神様に分かれるしかありませんでした。それゆえに、昼夜共の主人がなくなり、人も体と心の闘争歴史を抜け出すことができなくなったのです。

その闘争する歴史の中で平和の夢を抱いてきましたが、平和は一度も成し遂げられなかったために、再臨主が来て太平天下を完成しなければなりません。宣布しなければならないのです。

歴史を解くために、悲しい歴史の悲運を独りで責任を負ってきた文総裁の悲しさを誰が分かってくれるのかというのです。神様も分かってくれず、夜の神様も分かってくれず……。

アダムが堕落したことも知りません。教えてくれません。自ら明らかにしなければならないというのです。「おまえの責任だ。尋ねるな。私の責任ではない。私は知っているが答えることができず、教えてやることはできても教えてやれる立場ではない。お前の世話、おふたかたの世話にならずに解放の主人公にならなければならない。『あなた方が教えてくれなくても、天上世界へ行って再び教えを受けなくても、私たちが責任を負って、あなたが行くべき天下を引き受け太平王国の時代をきれいに成し遂げます』と言わなければならない。死ぬ前にその境界線を越えよ!」と言うのです。

夜の神様と昼の神様が皆さんの前にいることを皆さんは知りません。神様をおひとりと思いやすいというのです。夜の神様がいることを知らなければなりません。夜の神様が現れ、昼の神様が現れ、異なるおふたりですが、昼の神様は夜の神様に侍ることができないというのです。侍ることができないので、昼の神様は世界の事情を通して夜の神様に侍らなければならないというのです。

それが終る時まで、昼の神様も夜の神様に侍ることができるように、文総裁の統一教会全体の完成した先祖たちを引っ張っていくのです。先祖を動員し、氏族を動員して、後代の子孫万代を動員して、先祖が教えてやれなかったことを直接文総裁が知って、文総裁が先祖を呼んで、氏族を呼んで、子孫を呼んで、三時代を教えてあげるのです。

それを中心として皆さんが何になりましたか?三時代を教育されましたが、イエスの新婦も、相対圏も成すことができず、新郎も知らず、神様も知りません。それを教えてやらなければなりません。何年かかるか、分かりますか?先生は九十二歳になろうとしている今も、教える仕事が終わっていません。百四年、百十四年が過ぎなければなりません。

百十四年の峠をどのように越て行くのか。百十四年の峠、境界線を作ってしまったのは、九・九、八十一です。サタンの血筋は八十一から下がっていく時代になりますが、私は上がっていくのです。九十一から百数、百二数から百四数を超えて、百四数から百十四数を超えて、百十六数、百十八数、百二十一歳、百二十四歳を過ぎなければならないのです。太平聖代の王権時代が来るということです。

私が思いどおりにすることに不平があるなら言ってみなさい。不平があっても従って行くべき父であることを知って、師であることを知って、兄であることを知って、自らはその立場から兄として侍り、父として侍り、神様、夜の神様に侍ることができる最初の第一王子の名を捜し求める真の父母を本当に知って侍ってください。お願いです!

私は王になるために進むのではありません。私の頭にある影なき世界で王になることができる王に再び侍ることができる理想郷の祖国と郷土を見出した伝統の父母に再び侍るために出で立つ道が、先生が行かなければならない解放の世界なのです。それがどれほど待たれてきたかということを皆さんは知りません。

生きてみなさい。父母様の事情を倍にして、倍にして、さらに倍にして、何千万倍でも救いの手を差し伸べなければならないことを知ったために、私は手を差し伸べて、どのように正しくつかむのかということを夢にまで刻まれるように考えて生きてきた人なのです。これからは解怨成就して、船を、何ですか?「船を漕ぎ行こう、険しい海の波を越えて……」歌ってください!(韓国の歌「希望の園に」を歌う)

それは、私たち独立軍の歌でした。「自由、平等、平和、幸福の満ちた所、希望の国に……!」行きましょう。行くのです。できるのです。その日をこの時間を中心として宣布したことを忘れずに、船を漕げ……!その恨めしい歌を本当に歌ってみよというのです。

その峠を越えることができていません。

祖国光復なのです。「希望の国へと帆をあげよ」。抜け出せと言うのです「吹く風を受け、波を越え、前に進もう、自由、平等、平和、幸福の満ちた所」。その他に分かれ道がまたあるというのです。「希望の国に」、その国のために行かなければならないのです。私は涙が出ます。涙が止まることを知りませんが、もう止めなければなりません!

朝日が昇ればその歌を歌い、日が暮れるごとにその歌を歌ってきた先生の生涯を忘れないでください。そうしなければなりません。そのような孝誠(真心を尽くして父母に仕えること)の道理をこの宇宙に残すことができる夜の神様、昼の神様の所願成就の解怨の日を私がどうして忘れるでしょうか。

夜空を照らす日月星辰が消え去らなければならず、永遠なる世界の天地を二十四時間照らし出す目覚ましの鐘がやむことない私の正午の影なき世界の孝子、忠臣、聖人の家庭の道理を成し遂げてささげるべき真の父母の所願成就の日を、私が奉じてさしあげないでいられる宗族にはなりえないということを天理の何ものもすべて知っているのです。それゆえに、恥ずかしくない姿を備えるにおいて不可避的に私はその運命の中で生きて逝かねばならないのです。

 

—————————————————

 

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ サンクチュアリ教会へ
にほんブログ村

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中